1994年11月
1994年11月10日
情報数学の理論も興味!京都賞 受賞記念講演 アンドレ・ヴェイユ(基礎科学部門 受賞(数学 整数論・代数幾何学など)) 国立京都国際会館へ
情報数学の理論も興味!京都賞 受賞記念講演 アンドレ・ヴェイユ(基礎科学部門 受賞(数学 整数論・代数幾何学など)) 国立京都国際会館へ (大学の研究室 教授らとも、京大の友人とも)
あの頃考えていたこと(学問編)メモvol.2 数学 整数論(志村理論)を知る 「数を読む」Jugem
あの頃考えていたこと(学問編)メモvol.1 数学 整数論(志村理論)を知る 「数を読む」 se
数学 整数論「素数の宇宙の世界」 Dream of G. Shimura? (志村理論:志村多様体・志村ゼータ関数・志村曲線・志村モデル・志村系リフト・・) 【今日の数学者】2月23日生 志村五郎 li
1993年6月23日 プリンストン大学のA.ワイルスが、フェルマーの最終定理の証明を宣言 fc2
1994年9月19日 プリンストン大学のA.ワイルスが、フェルマーの最終定理の証明を修正 li
1995年2月13日 プリンストン大学のA.ワイルスが、フェルマーの最終定理の証明(完成)se
感動!数学の歴史 「350年の難問解決! フェルマーの最終定理」 1995年
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(京都を感じて、「受賞記念講演」を聴きに・・・アンドレ・ヴェイユと日本人、黒澤 明 )
アンドレ・ヴェイユ(André Weil, 1906年5 月6日 - 1998年8月6日)
黒澤 明(くろさわ あきら、新字体:黒沢、1910年(明治43年)3月23日 - 1998年(平成10年)9月6日)
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アンドレ・ヴェイユ(André Weil, 1906年5 月6日 - 1998年8月6日)
業績
数論、代数幾何学に大きな業績を残した。ヴェイユ予想は数論と代数幾何学の深いつながりについて予想したもので、リーマン仮説の類似の一つであるが、その後のセールやグロタンディークの活躍につながるものである。またヴェイユ予想の解決は20世紀の数学の大きな出来事でもあった。
彼はブルバキの中心的なメンバーであった。ヨーロッパの多くの言語に通じていて、サンスクリットのバガヴァッド・ギーターは彼の愛読書だった。空集合の記号 Ø も彼の考え出したものだが、これはノルウェー語のアルファベットの一つである。数学史に関する造詣も非常に深く、その一端はブルバキの『数学史』からもうかがい知ることができる(ブルバキに数学史を載せることは彼の発案で始まった)。またブルバキの数学史に関する記述は大半がヴェイユとデュドネによるものともいわれ、単著でも数学史に関する著作も多い。
主著は『代数幾何学の基礎』、『アーベル多様体と代数曲線』、『代数曲線とそれに関する多様体』。「Basic Number Theorem」、この他に、自伝や数学史の著作もある。
ヴェイユと日本人数学者
シカゴ大時代、ヴェイユは小平邦彦、岩澤健吉らの訪問及び手紙のやり取りを通じて日本人数学者達と次第に親密な関係を結んでいった。その中の一人、中山正(元名古屋大教授)に対しては「中山は1951年に、私の命ではないが名誉を救ってくれた」と述べている。それは日本の数学者達の求めに応じて高木貞治記念号への寄稿予定であった類体論に関する証明に対してのことである。当時アーバナにいた中山はヴェイユの証明中に誤りを見出し、既に東京に送られていたヴェイユ原稿の刊行前での改正に大きく貢献した。それらもあり、ヴェイユは日本での数論のシンポジウムへの招待に対して「とりわけ嬉しく思った」としている。結果も、「見事で楽しくまた実り多い会議」と述べている。その中で、志村五郎、谷山豊の虚数乗法理論のアーベル多様体への拡張へのアイデアがヴェイユと共通しており、かつ三者で補い合う関係にあった為に、自身の新しいものとばかり信じていたヴェイユを大いに驚かせている。
谷山豊によるヴェイユ評
谷山・志村予想の発案者でもある日本の数学者、谷山豊はヴェイユを評して「歯に衣を着せない」、「その批判は辛辣である」、「温厚な大先生方には余り評判は宜しくない」とする一方で「それを一概に排斥しないだけの自由な空気がなかったならば、数学は窒息してしまったであろう」としている。そしてヴェイユの大胆な推測、ハッタリではないかと思われかねない発言に対し「凡眼を以って、天才の思想を云々するのは危険であろう」と記している。谷山はヴェイユの才能を第一はclassicな理論の中から本質を鋭く見抜き、何が、いかに抽象化され一般化されるべきかを問う能力、第二に、それを実行に移す際に山積する障害に対し、挫折したり迂回路を取ることなく、障害を一つ一つ強引にねじ伏せる腕力と息の長さであると評し、「奇麗事が好きで腕力の弱い我が国の多くの数学者」に対する頂門の一針であるとした。
エピソード
同時代の数学者・数理物理学者ヘルマン・ヴァイル(Hermann Weyl)と名前が似ていることから、「後世の数学史家は、私と彼が同一人物なのかをめぐって激しい議論をすることになるだろう」と冗談を言っている。
ヴェイユは応用数学(同時代的には、数学と物理学の組み合わせは一種の花形であった)には興味が無いとしていた。しかし、人文科学者を含めて交友はあり、友人の人類学者であるクロード・レヴィ=ストロースからのオーストラリア北端のムルンギン族の婚姻制度の組合せ問題の解決依頼に対して協力している。ヴェイユはこの問題を、婚姻のかたちを二つの元が生成するアーベル群に抽象化して整理できると見抜き解決した。この件により「ムルンギン族に対しある種の愛情を感じるようになった」と後に認めている。
ヴェイユはブルバキの初期メンバーで有名だが、彼自身そのことを非常に誇らしく思っており、娘の名前もニコラ・ブルバキからとってNicoletteと名付けるほどであった。
数学は少数の天才によって進歩するのであって、2流以下の数学者たちは共鳴箱にすぎないとも言っている。
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京都賞
1994年 第10回
先端技術部門バイオテクノロジー及びメディカルテクノロジー ポール・クリスチャン・ラウターバー
基礎科学部門数理科学(純粋数学を含む) アンドレ・ヴェイユ
思想・芸術部門映画・演劇 黒澤 明
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アンドレ・ヴェイユと日本人
谷山・志村予想とは
「有理数体上の楕円曲線(注1)はモジュラー関数(modular function)で一意化(uniformization)される」という命題が,谷山・志村予想と呼ばれているものです.このような形で明確に定式化したのは志村五郎です([11], p. 245).
円の方程式 (xの2乗)+(yの2乗)=1 は x=cos t, y=sin t とパラメータ表示され,tを実数の範囲で動かすと円上のすべての点が得られますが,このことを円が三角関数で一意化されるといいます.楕円曲線とモジュラー関数についても同様のことが成り立つというのが上の命題の意味です.
古典的な結果としてすでに,楕円曲線がワイエルシュトラスのペー関数と呼ばれる楕円関数によって一意化されることが知られています.谷山・志村予想によれば,楕円関数の代わりにモジュラー関数が利用できるというわけです.モジュラー関数のような「良い性質」を持つ関数で一意化できると,楕円関数ではできなかったいろいろなことが証明できます.
予想に谷山の名前が付いているのは,1955年に日光で行われた代数的整数論の国際シンポジウムにおいて谷山豊が楕円曲線と保型形式(automorphic form)との関連について問題の形で言明したことによります.ただし,谷山自身はモジュラー関数だけでは不十分だろうと思っていたようです([5], pp. 188-189, [11], pp. 248-251).
残念なことに,谷山豊は1958年11月17日に31歳という若さで自殺してしまいました.理由は不明です.さらに,彼の婚約者がそのあとを追って自殺しています.
谷山・志村予想の呼び方は定まっていません.ここでは「谷山・志村予想」と呼んでいますが,他にも「志村・谷山予想」「志村・谷山・ヴェイユ予想」「谷山・ヴェイユ予想」あるいは単に「ヴェイユ予想」と呼ばれることもあります(注2).ここにフランスの偉大な数学者アンドレ・ヴェイユの名前が登場する理由は,彼がこの予想に関連するいくつかの論文を発表し,大きな業績を上げたからです.
しかし一方で,数学者サージ・ラングが,この予想に関するヴェイユの発言を徹底的に調べ上げ,その調査結果を「ラング・ファイル」あるいは「谷山・志村ファイル」と呼ばれる文書にまとめたという話は有名です([5],pp. 188-191, [8], pp. 137-157).彼は,ヴェイユが当初予想が成り立つことを信じてはおらず,この予想の成立にはなんの貢献もしていなかったと断定しました.
モジュラー関数や保型形式の定義については,岩波数学辞典第4版を参照してください.ここでは,モジュラー関数,モジュラー形式はそれぞれ保型関数,保型形式の特別なものであるということだけ注意しておきます.
(注1)楕円曲線とは,x, y を未知数とする方程式
(yの2乗) = (xの3乗) + a(xの2乗) + bx + c (a, b, c は有理数)
で与えられる曲線で,右辺が x の多項式として重根をもたないものをいいます.
(注2)単に「ヴェイユ予想」という場合には,1949年に代数多様体の合同ゼータ関数に対してヴェイユが主張したリーマン予想の類似のことを意味することのほうが多いです.この予想は1973年にベルギーの数学者ドリーニュによって完全に解決されました.
谷山・志村予想の解決
1980年代,ゲアハルト・フライが「谷山・志村予想が正しければ,フェルマの最終定理も正しい」ということを発表しました([1]).しかし,フライの主張が成立するためには解決しなければならないいくつかの問題があることをジャン・ピエール・セールが指摘しました.その後,ケン・リベットがそれらの問題を解決しました([2]).
1990年代前半から中頃にかけて,アンドリュー・ワイルズが,半安定(semi-stable)な楕円曲線に対して谷山・志村予想を証明し,その副産物としてフェルマの最終定理を証明しました([3],[4]).
ワイルズが本格的に谷山・志村予想とフェルマの最終定理の証明にとりかかったのは,リベットがフライの主張を証明したというニュースを聞いた1986年頃だそうです(注3).それから彼は何年もの間,あらゆる他の研究から手を引き,屋根裏の勉強部屋にこもって谷山・志村予想の証明に集中したといいます([5], pp. 192-193, [8], pp. 167-170).
ワイルズは,谷山・志村予想をガロア表現(注4)の言葉で言い換えることによって証明しました.1993年の時点で,谷山・志村予想の証明をある種のセルマー群(注5)の元の個数を数えることに帰着するところまでは成功していました.そのときには,セルマー群の大きさを評価するのにオイラー系(注6)を利用することを考えていました.しかし,その方法による証明に大きな欠陥が見つかりました.次にヘッケ環を利用する方法で再挑戦し,かつて自分の学生であったリチャード・テイラーと共に証明を完成させました.
その後,ワイルズの証明を改良することによって,谷山・志村予想に関する成果が次々と発表されました([7],[9]).そしてついに,クリストフ・ブルイユ,ブライアン・コンラッド,フレッド・ダイヤモンド,リチャード・テイラーの4人によって谷山・志村予想が完全に解決されました([10]).
(注3)リベットの論文の出版は1990年ですが,実際にはフライの主張は1986年に証明されています.
(注4)ガロア表現とは,絶対ガロア群から正則行列全体のなす群への準同型写像です. なお,絶対ガロア群とは,有理数体の代数的閉包(=有理数係数の多項式の根の全体からなる体)の,有理数体上のガロア群のことをいいます.
(注5)セルマー群とは,代数的整数論で重要な概念であるイデアル類群を一般化したものです.セルマー群の元の個数を数えることは類数(=イデアル類群の元の個数)を求めることに対応します.なお,本文中でいう「ある種」のセルマー群とは「保型形式に伴うガロア群の2次対称積表現」のセルマー群です([6], p. 15).
(注6)オイラー系はロシアの数学者コリヴァギンによって発明されました.なお,ワイルズはもともと岩澤理論の専門家で,1980年代前半にバリー・メイザーと共に,岩澤理論で重要な「岩澤主予想」を最初に証明しています.そのため岩澤主予想は「メイザー・ワイルズの定理」と呼ばれることもあります.その後1980年代後半にカール・ルービンがオイラー系を用いて岩澤主予想の別証明を得ています.
文献
[1] Frey, G., Links between stable elliptic curves and certain diophantine equations, Annales Universitatis Saraviensis 1 (1986), 1-40.
[2] Ribet, K. A., On modular representations of Gal(\overline{Q}/Q) arising from modular forms, Invent. Math. 100 (1990), 431-476.
[3] Wiles, A., Modular Elliptic-Curves and Fermat's Last Theorem, Ann. Math. 141 (1995), 443-551.
[4] Taylor, R., Wiles, A., Ring-Theoretic Properties of Certain Hecke Algebras, Ann. Math. 141 (1995), 553-572.
[5] 足立恒雄, フェルマの大定理が解けた!, 講談社, 1995.
[6] 加藤和也, 解決!フェルマの最終定理, 日本評論社, 1995.
[7] Diamond, F. : On deformation rings and Hecke rings, Ann. of Math. 144, 137-166, 1996.
[8] アミール・D・アクゼル(著), 吉永良正(訳), 天才数学者たちが挑んだ最大の難問, 早川書房, 1999.
[9] Conrad, B., Diamond, F., Taylor, R., Modularity of certain potentially Barsotti-Tate Galois representations, J. Amer. Math. Soc. 12 (1999), 521-567.
[10] Breuil, C., Conrad, B., Diamond, F., Taylor, R., On the modularity of elliptic curves over Q, J. Amer. Math. Soc. 14 (2001), no. 4, 843-939
[11] 志村五郎, 記憶の切繪図, 筑摩書房, 2008
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黒澤 明(くろさわ あきら、新字体:黒沢、1910年(明治43年)3月23日 - 1998年(平成10年)9月6日)は、日本の映画監督、脚本家である。妻は女優の矢口陽子。
ダイナミックな映像表現とヒューマニズムに徹した作風で、『羅生門』『生きる』『七人の侍』など30本の監督作品を生み出し、アカデミー賞と世界三大映画祭(ヴェネツィア、カンヌ、ベルリン)で賞を得た。
小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男らと共に世界的にその名が知られ、映画史においてはスティーヴン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカス、フランシス・フォード・コッポラ、北野武などの映画人に大きな影響を与えており、日本では「世界のクロサワ」と呼ばれた。
映画監督として初めて文化勲章受章、文化功労者顕彰、東京都名誉都民選出、贈従三位(没時叙位)、贈国民栄誉賞(没後追贈)。1990年に日本人初のアカデミー名誉賞[注釈 1]を受賞。1999年には米週刊誌『タイム』アジア版の「今世紀最も影響力のあったアジアの20人」に選出されている。米国映画芸術科学アカデミー会員。
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妥協を許さない演出
完璧主義とも呼ばれる黒澤は、妥協を許さない厳しい演出で知られる。
俳優の演技はごく自然に見えるまでリハーサルを何度も何度も行い、徹底的に役になりきらせている(当時の映画界ではリハーサルは重視されなかったが、黒澤はデビュー作からリハーサルを入念に行った)。また、本読みの段階から衣装を着させることもある。
黒澤作品の美術は細部まで綿密に作られ、巨大であるセットが特徴的である。長年黒澤作品で美術監督を務めた村木与四郎は、「(黒澤のセットの特長は)みんな大きなロケセットを一つデーンと建てちゃう点」と語っている[9]。『野良犬』では30杯ものセットを作ったといわれ[10]、『羅生門』では高さ20メートルに及ぶ巨大な門を大映京都撮影所前に建設した。カメラに写らないところにまで大道具小道具を作り込むのも特徴で、『赤ひげ』では薬棚の引き出しの中にまで漆が塗られ、『羅生門』では「延暦十七年」と彫られた門の瓦を4000枚も焼いている。
『蜘蛛巣城』のクライマックスとなる、三船演じる鷲津武時が城兵の裏切りにより、全身に矢を浴びせられてハリネズミのようになり最期を遂げるシーンでは、本物の矢が三船に射かけられるという命がけのスタントが行われ、三船は黒澤に「俺を殺す気か!!」と怒鳴ったほどである(蜘蛛巣城#製作・撮影のエピソード参照)。
『天国と地獄』では、特急こだまからの身代金受け渡しシーンで、本物のこだま用国鉄151系電車を一編成チャーターし、実際に東海道本線上を走らせて撮影を行った(天国と地獄 (映画)#エピソード参照)。
ほかにも、スタッフと役者を待機させながら演出意図に沿った天候を何日も待ち続けたり、撮影に使う馬はレンタルせず何十頭を丸ごと買い取って長期間調教し直してから使ったり、時代物ロケの際に見切れていた画にそぐわない住宅を「あの家消して」と指示するなど、様々な逸話がある。
撮影
黒澤は複数のカメラを同時に回し撮影するというマルチカム手法を頻繁に取り入れた。これは長い芝居を複数台のカメラで同時に回し、ワンシーン・ワンカットで撮影するという手法である。これにより役者、スタッフの緊張感を高めリアルで迫力ある映像に結びついていった。この技法は元々『七人の侍』で、雨中の合戦や水車小屋が焼けるシーンなど撮り直すことが難しいシーンを、何台かのカメラで一度に写すことから始まったもので、『生きものの記録』から本格的に導入した。
独特なパンフォーカス撮影もほとんどの作品で行っており、パンフォーカスには不向きな望遠レンズをあえて使用するため、絞りを極限まで絞って撮影しなければならなかった。そのためには強い照明をあてなければならず、黒澤の撮影日は電力不足で撮影所の他の仕事ができなかったという。また、あまりにも強い照明を当て続けたせいで役者のカツラが燃えだしたこともあった。志村喬は『悪い奴ほどよく眠る』の撮影で「髪は燃えそうなほど熱く、テーブルのフォークやスプーン(小道具)は熱くて持てなかった」と語っている[11]。
セリフのアフレコを嫌い、現場での録音にこだわったため、『七人の侍』、『蜘蛛巣城』などのセリフは封切りの時点で聞き取りにくくなってしまった。この点は批判の対象となった。『七人の侍』は近年になって4Kリマスターが行われ、聞き取りやすくなった。
スタッフ
監督作品は基本的にはすべて自らの企画・シナリオによる。大抵の作品では共同執筆者がいたが、自分の描きたいものを自分の言葉で語るということは譲らなかったという[11]。共同執筆する理由として黒澤は「僕一人が書いていると大変一面的になるおそれがある。二人(もしくは二人以上)でディスカッションしながらやっていく」[12]と語っている。そんな黒澤作品の主な共同執筆者として小国英雄(12本)、菊島隆三(9本)、橋本忍(8本)、久板栄二郎(4本)、井手雅人(3本)、植草圭之助(2本)がいる。
映画音楽は作曲家任せではなく、作曲家に自分の欲しいイメージを的確に伝えていた[9]。そのため注文の厳しい黒澤と作曲家との軋轢は常にあったという。『醉いどれ天使』から黒澤作品で音楽を担当した早坂文雄とは私生活でも無二の親友であった。『七人の侍』の「侍のテーマ」を作曲したのも早坂で、黒澤の黄金期の作品の音楽を作曲した。しかし、1955年に『生きものの記録』の音楽を最後に早坂が死去。代わって彼の愛弟子だった佐藤勝が『赤ひげ』までの音楽を担当した。武満徹も『どですかでん』と『乱』の2作を担当したが、黒澤と衝突して訣別している。晩年の作品では池辺晋一郎が担当した。
ほかのスタッフは、一貫して東宝で製作していたことも含め、「黒澤組」による固定スタッフで製作したことが多かった。撮影の中井朝一、斎藤孝雄、上田正治、美術の松山崇、村木与四郎、録音の矢野口文雄らが黒澤映画を支えていった。
プロデューサーは『素晴らしき日曜日』以降10本を担当した本木荘二郎が全盛期を支えて名コンビを謳われたが、使途不明金疑惑で失脚。その後黒澤プロダクションが採算に分担する体制となってからは東宝側プロデューサーとして田中友幸が6本を担当しており、この間は超大作が多い。
俳優
黒澤は、1948年の『醉いどれ天使』から、1965年の『赤ひげ』まで、『生きる』を除く計16本の作品に三船敏郎を起用し、全作で主演として扱った。基本的に役者に惚れこむ事の無い事で知られる黒澤も、三船を手放さなかった。この時期の黒澤作品は「三船無くして黒澤は無く、黒澤無くして三船は無い」とでもいうべき、スター俳優とスター監督との幸福な関係に支えられているといってよい。黒澤は「三船君は特別の才能の持主で代わる人がいないんだ」と語っている。黒澤が「世界のクロサワ」と呼ばれると同時に三船も「世界のミフネ」として海外で広く知られる存在になっていった。『赤ひげ』を最後に黒澤は三船を使わなくなり、そのため2人の関係は様々に取り沙汰されることになる。しかし「将軍」の監督ジェリー・ロンドンによれば「ミフネは『影武者』を蹴って(役は不明)我が『将軍 SHOGUN』に出る」と語られており、全くの不仲であった訳ではない。
三船と共に志村喬も黒澤作品には不可欠な存在であり、処女作『姿三四郎』から『影武者』まで、『續姿三四郎』『素晴らしき日曜日』『どん底』『どですかでん』『デルスウザーラ』の5作を除くすべての黒澤作品に出演した。『醉いどれ天使』からは三船とW主演し(『生きる』はワンマン主演)、『蜘蛛巣城』以降は加齢を理由に脇役を演じた。
デビュー作『姿三四郎』で主演した藤田進は、『わが青春に悔なし』まで『一番美しく』を除く作品に出演。1946年に藤田は東宝を退社したため、黒澤作品への露出はないが、『隠し砦の三悪人』で復帰。最後に窮地に遭った主人公を助ける仇敵を演じたが、それ以降に出演した『悪い奴ほどよく眠る』『用心棒』『天国と地獄』では端役を演じている。
仲代達矢は、『七人の侍』でのエキストラ出演が初の黒澤映画出演となり、『用心棒』『椿三十郎』『天国と地獄』では三船に次ぐ二番手の役どころ(前二者は宿敵役)で出演。それ以降の作品では、勝新太郎の降板事件で勝新の代わりに出た『影武者』と『乱』に主演した。
その他黒澤映画に出演した俳優として、主要な役では森雅之(5本)、大河内傳次郎(4本)、香川京子(4本)、山崎努(3本)、寺尾聰(3本)、山田五十鈴(3本)などが挙げられる。脇役では藤原釜足(12本)、千秋実(11本)、高堂国典(10本)、本間文子(10本)、清水将夫(9本)、土屋嘉男(9本)、加藤武(8本)、三好栄子(8本)、清水元(8本)、渡辺篤(8本)、千石規子(7本)、左卜全(7本)、東野英治郎(7本)、宮口精二(5本)などが常連出演した。
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1994年11月10日 アンドレ・ヴェイユ 京都賞 基礎科学部門 受賞(数学 整数論・代数幾何学など)国立京都国際会館 (大学の研究室 教授らとも、京大の友人とも)
京都 VSOP用 1994年 黒澤明 京都賞 受賞 日時 記念日 歴史 授賞式は11月10日、国立京都国際会館
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